自分が本当に何がしたいのかが、
サッパリ分からなくなったこの2年。
ぐるぐるが長かったわね(;゚∀゚)
自分って、どんな人ですか?と
周りの人たちに自分のことを聞いてみたりしても、
なんか自分が感じているのとギャップがあって、
自己評価や自己肯定感が低いってことなんだけど。
長いこと、自分が自分のこと認められなかったんだ。
私を変えてくれるのは、ここかも?とか
このノウハウ、このメソッドかも?知れないと、
学んだり、手技を身に付けるけど、
問組み方も受け身で精神的にも依存していたなーと思う過去の日々。
依存って言葉が、それはダメです!みたいなのが
含まって使われてる感じもするけど。
でもね、依存アリだと思うんです、今は。
根底に「自立する」っていう思いがあればなんだけどね(と私は思っている)
赤ちゃんだって子供だって、親に依存しないと生きていけない。
いつかは一人で歩けるようになる、そんな感じ。
大人だって、自分で立てない時は、
誰かにつかまらせてもらってイイと思うのよ。
何かに頼るということで、自分を支えてたように思う。
メイク、セラピー、エネルギーワーク、スピリチュアル…
「自分探し」なんていう、聞こえの良いワードに逃げて、
自分に向き合うこともせず、ラクして変わろうとしてたな。
やってみてわかるのは、ラクな道って無いってこと。
そして失敗というのも無いってこと。
なぜ、ラクな道、失敗のない道を行きたいと思ってしまうのかというと、
全然、本気じゃなかったから。
自分の人生なのに、責任取るの怖くて避けてたから。
依存してるとも気づすにだけども、たーっぷり依存すると、
あ?これ依存じゃん!ってやがて気づく時がやってくる。
(2回くらい気づいたことある、笑)
自分にとって、
もうすでに必要のなくなったものから卒業する時期は、
自分で気づけるのだと思う。
その時に、掴んでいた手を離すだけで良いのよね。
依存していた自分を認識したなら、
そう気づいたなら、自分で立てる。
自立しなくちゃ!とかネバならない的な意気込みは必要なくて。
あ、依存していたんだ、よっかかってたんだ。
んじゃ、立ちましょか~
って感じの軽やかさで。
自分で立てば、私はここにいるんだ!と大きく旗をふれる。
それが、今の私。
やっと立てた!わーいわーいヾ(*´∀`*)ノ゙
まったく…「クララ」が立った!だよ(笑)
私は、アゼルバイジャンで、
『自分は全てを持っているんだ』という、
なんとも不思議な感覚を得た出来事があったの。
『人は、なんでも叶えていくことは可能なんだ』と確信した出来事だった。
それは、自分はなんでも持っているという感覚。
あぁ、自分はすべてを持っているその上に、
好きなこと、得意なこと、やってみたいこと、が乗っている。
これって、自分の出来ることって、
どんな些細な事でも、プラスだし、
誰かのやくにたてること(価値)なことなんじゃない??って。
足りない、足りないと、不足を感じて外側から埋めようとしていたけれど、
そもそも、それが勘違いだったってこと。
みんな誰しも、すべてを持っている。
だから、今まで必死に掴んで持っていたものを、
たとえ今、全てを失ってたとしても、
自分でまた生み出していける。
その確信がある。というのが本当の「自信」なんじゃないかな。
去りゆくハイジを思わず追いかけた拍子に、車椅子を手放したクララ。
あのシーンは、思い込みを手放す象徴的なシーンだよね。
歩けない方が痛い思いをしなくてすむ。
自分ん中に閉じこもっていた方が、自分の身を守れる。
自分はかわいそうっていう悲劇のヒロイン目線。
拗ねてるほうが大切にされるという勘違い。
思わず立った瞬間「今までの自分」を手放したのだよね。
もう、言い訳ができない、自分で立った状態=自立。
それは、自由と喜びと責任はすべて自分の手の中にある状態。
私が今、エネルギーが高いのは「それ」を知ったから。
「ない」から「ある」へのエネルギーシフトはとても大きい。
そしてそのエネルギーは、自分の中から湧いてくる。
自分で探し当てたその、エネルギーのありか(源泉)は、
自分でしか探せないし、
見つければ、もう、見失うことは出来ない。
みんなにもあるよ。
その源泉。
みんなが、自分の源泉を自分で見つけられる場を創るよ!
本気で「自分の好きや情熱を見つけること」にコミット!
それがアルケミストプロジェクト。
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